
東軍総大将の徳川家康本陣では東軍の諸将たちが居並ぶ中、討ち取られた一人の西軍の武将の首実検が行われていた。
その首の主の名は「湯浅五助」。
ああ、首だけになっての登場だなんて可哀そう…。
と思ったら、それは大間違いです!
この姿にこそ忠義の士・湯浅五助の真実が隠されているのである!
まずは前置きとして、今回も浅野祥雲研究家・大竹敏之さんから提供していただいた浅野祥雲さんの製作風景の写真の話から。
関ケ原ウォーランドのコンクリート塑像群は祥雲さんの戦後の作品ということもあり、沢山の写真が残されているそうで、その一枚には現地で関ケ原ウォーランド関係者とともに写っているものもあった。製作風景を視察に来た関係者の方々を前にして作品について熱く語る祥雲さん、といった感じのショットであったが、よくよく見ればそこには「お坊さん」の姿も…。
それを見て私はハッとした。
ああっ!?なんだか長年の疑問が解けたような!
祥雲さんはコンクリート仏師として、大弘法、五色園、桃太郎神社、そして現在熱海城にある仏像群と、ほとんどお寺や神社に関係する作品を作っているのに、「関ケ原ウォーランド」だけは武将群像ということで何か毛色が違うような気がしていたのだが、やはりここもお坊さんが関係している一連の「コンクリート仏像」群の仲間なのではないかと…。
ということで、それを関ケ原ウォーランドの館長さんに訪ねてみたところ、「はい、関ケ原ウォーランドの隣の宝蔵寺も合戦で戦死された方々の供養のために建立されたものです。ちなみに私、宝蔵寺の事務局長でもあります」
やっぱり、というか灯台もと暗し!
関ケ原ウォーランドのすぐ隣に合戦戦死者供養堂があるのは知っていましたが、こちらも関ケ原ウォーランドと同じ建立者だったとは!
つまり関ケ原ウォーランドは、宝蔵寺に付随する「関ヶ原の戦い」を群像で表現した「立体絵解き」といえます。
そう考えると改めて関ケ原ウォーランドのキャッチコピーといえる「ノーモア関ヶ原合戦」の言葉がひじょうに深く心に響きます。


こちらが宝蔵寺。境内に祥雲さん作と思われる観音様が建っていたり、「ノーモア関ヶ原合戦」の石碑があります。
さて関ケ原ウォーランドへと入ってみましょう。
つい像の造形にばかりに目がいってしまいますが、その配置もじっくり見てみるとさらに面白い。縮小されてはいるもののほとんど正確に実際の東軍西軍の布陣通りに武将の像が配置されています。

入り口入ってすぐは南宮山・毛利軍。
策士・吉川広家、戦局を見守り、兵を動かさず。
そのまま先へ進んでいくと前回紹介した「ノーモア関ヶ原合戦」の武田信玄の亡霊が出迎えてくれます。
ここを左に折れて、園内を道に沿って時計周りに巡ってみるのがオススメルート。戦いの経過に沿って、様々な東軍西軍諸将の人間ドラマを見ることができる。とくに西軍諸将の描写はとても細かく、並々ならぬ想いを感じる。
関ヶ原の戦いにおける最大の人間ドラマは小早川秀秋の裏切り、そして大谷吉継の自刃であろう。

松尾山にて陣を構える小早川秀秋軍。
家康と内通し、裏切りの約束をするも、いまだ戦局を見て思案中…。


業を煮やした家康は、松尾山に向けて督促の威嚇射撃!(まあ縮小されているので、小早川秀秋にモロ命中しそうですが……)
これをきっかけに小早川軍も重い腰を上げ、麓の大谷吉継軍に向かって突撃することとなる。この小早川秀秋の裏切りがまさに勝敗の決め手となった。

奮戦する大谷吉継の盟友平塚為広。
颯爽と馬で駆ける姿は関ケ原ウォーランドでも随一のカッコよさ!


覚悟を決め、自刃する大谷吉継。
主君の最期を見守る家臣たちの無念の表情が鬼気迫ります。
そして家臣たちの名前をよく見れば……、

ああっ!ゆ、湯浅五助!!
実は関ケ原ウォーランドで“生前”と“死後”の両方の姿が表現されているのはただ一人「湯浅五助」のみです。
(生前の姿だけなら、戦場と本陣の両方の場面に登場する本多忠勝、松平忠吉らもいます)
そして宇喜多軍、小西軍、中央突破の島津軍、笹尾山の石田三成軍と様々な西軍の武将たちのドラマが展開され、やがて場面は東軍総大将・徳川家康本陣へと移ります。

笹尾山で指揮をとる石田三成。
関ケ原ウォーランドでただ一人「石田三成公」と敬称付きの名札。



繰り広げられる命のやりとり……。
戦さは決して英雄たちの華々しい活躍ばかりではない。その裏では多くの血が流れ、残酷なまでにその真実を描写します。

園内の奥まったところに阿弥陀如来がまつられています。
仏教の世界では、絶え間なく戦いが続く「修羅道」という世界があるという。
まさにこの群像たちはその世界の体現なのではないだろうか。彼らは身を呈して我々に平和の尊さを訴えかけています。

徳川家康本陣。そこでは首だけの姿となった湯浅五助を囲んで、徳川家康をはじめとする東軍の諸将たちが居並ぶ。
しかし、それは決して首だけとなって晒し者にされているわけではない。
ここで湯浅五助の最期についてお話を。
主君大谷吉継の介錯をつとめた湯浅五助は、その主君の首を敵に渡すまじと山中に密かに埋葬する。
しかしそれを東軍の武将藤堂仁右衛門に見られてしまい、自身の首と引き換えに主君の首の在り処は秘密にしてほしいと頼み、あえて自身は藤堂仁右衛門に討たれたのである。
その湯浅五助の忠義の心に敵味方関係なく感動したといわれている。
(もちろん藤堂仁右衛門も約束を守り、大谷吉継の首の在り処を口外しなかった)


つまり、首だけで表されたこの姿こそ、湯浅五助にとって一番の誇りある舞台なのである。
それを知ると、まるで東軍本陣にただ一人威風堂々と乗りこんできたかのようであり、まさにこの場面の主役…、いや、
「関ケ原ウォーランドの影の主役」は湯浅五助といっても過言ではないっ!!!
……ちょっと興奮してしまいましたが、まあともかく関ヶ原の戦いのエピソードを知ってから巡ってみると、さらに関ケ原ウォーランドが楽しくなりますよ!
あなたもお気に入りの武将を見つけてその人間ドラマに迫ってみてはいかがでしょうか。
最後に関ケ原ウォーランドの背後の山中にある大谷吉継の墓を紹介します。
以前に関ケ原ウォーランドを訪問した後、大谷吉継と湯浅五助のエピソードを知って、再訪の際にはぜひ訪ねたいと思っていた場所。
静かな杉林を分け入っていくと、ひっそりと大谷吉継の墓があり、そしてその隣には忠臣湯浅五助の墓がまるで今も主君を守るかのように建っていた。(近くには盟友平塚為広の碑も建てられている)
そして大谷吉継の墓を建立したのは藤堂家だという。やはり真の武士は真の武士を知るということか。
乱世に咲き、そして散っていった漢たち…、その熱き魂が伝わってくるかのようでした。
というわけで二回にわたってお送りした「関ケ原ウォーランド謎解き紀行」いかがでしたでしょうか。
はるか戦国の世にそれぞれの信念で駆け抜けた人々。そしてその意志を継いで伝えていこうとする人々。そのどちらも人間ドラマに溢れています。
関ケ原ウォーランドを訪ねれば、きっとその熱い想いを語りかけてきてくれるはずです。

「皆の者、関ケ原ウォーランドに集うべし!!」
関ケ原ウォーランド公式サイト
関ケ原ウォーランドの館長さんによる公式ツイッターも始まりました。
皆の者!こちらもどしどしフォローするのじゃ!!
(2011年4月)
※追記
2012年4月28日(土)発売の「車内泊マガジン Vol2」(笠倉出版社)で、関ケ原ウォーランドを特集しました。
ぜひお読みください!
詳細はこちら